Saturday, June 19, 2010

言語システム

最近、言語システムというものに興味がある。

なぜ、日本人はあいまいなものいいしかできないのか?
なぜドイツ語圏から多くの偉大な思想家が生まれているのか?
日本人には一般的に、日本人的な思考体系があり、イギリス人にもイギリス人的な思考体系があり、ドイツ人も、中国人・・・もそうである。そして、最近それらは言語に大きく規定されているのではないかとい感じている。(ここで、言語が先にあるのか、そのような民族的性質が風土や他国の侵略等歴史的経緯によって形成されているのか、はたまたその組み合わせなのか、という議論はひとまず置いておくこととする。)
そこで、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」などに読み漁っているとこである。あまり、まとまってはいないが、今回はまず私の考える日本語の特徴と言語システムの2つの目的について記しておく。


◆日本語の特徴
日本語には、使用する文字の種類についても、文法・語法的にも様々な特徴がある。一つの例が、単語には複数形がないことである。したがって、日本ではその物が1つあるのか複数あるのかには明示的にあまり意識されない。これは、外務省の対外的説明と内向きの説明に利用されたりする。例えば、沖縄の普天間基地移移設問題で、5月に発表された日米合意案について、外務省は日本語版では単に「滑走路」としているが、英語版では「runway portion(s)」と複数形になっており、対外的には2本の滑走路を含む現行のV字滑走路案を念頭に合意したことが分かる。
また、日本語は主語が省略可能なことが多く、行為の責任の所在があいまいになったりするため、一般にリーダーシップの欠如が問題になることが多い。
これら特定の言語の特徴は、他言語との比較でしか認知することはできない。つまり、日本語しかわかっていない人間は、日本語で規定されているようなルール(制約)を超えて、自覚的に思考することはできないということになる。(もちろん、数式など異なる記号体系を使えば思考はできるが、それは日本語ではない。)
こう考えると、英語を使えないことが多い日本人は何やら思考回路が貧弱なようにも思えてくるが、日本語はカタカナや漢字を用いて、他言語の翻訳機能にすぐれている(?)ために、いったん日本語に適切に翻訳されれば、それほど問題はない。(ただし、訳書が出るのに、2~3年もかかっていたら古典的な価値を持つ名著を除いて、情報としての鮮度は落ちる。また、訳が完全に正確ということもあり得ない。さらに、小説などはその文学的・詩的な質感が失われてしまうことは言うまでもない。)しかし逆に、日本語のそのような言語としての柔軟性が日本人の外国語習得意欲を妨げている一因とも考えられる。

◆思考ツールとしての言語システム
私は、2年前にシンガポールに留学し、主に英語を使って生活していたが、そのときに稚拙な英語能力のために日記などを書くのにやたら欲求不満になり、ときどき日本語で一気に開放されたように考え事を書きつづった覚えがある。そして、日本に帰ってきてからは、英語というよりかはもっと日本語を身につけたいと本気で思ったもである。つまりは、少なくとも一つの言語に関しては高度に習熟していなければ、質の高い思考はできないだろうということに気がついたのである。まとめると、言語を思考ツールとして捉えるならば、中途半端に習得した言語は使い物にならないだろうというだ。

◆コミュニケーション・ツールとしての言語システム
哲学書を読むことは、より抽象的で根本的な概念についての語彙が増えるので、その範疇での質の高い思考ツールを得ることでもあると思う。しかし、そのような難解な言葉は、日常生活におけるコミュニケーションには全く役に立たないだろう。それどころか、伝わることも伝わらないし、いかに自分が感動した話であっても聞く方としては、全く魅力を感じないだろう。
要するに、日常生活においては意思伝達をして何かをしてもらったり、感覚や感情や伝えることで共感してもらったりすることが大事なのであって、言語はそのように使われているのである。この場合、哲学書は何の役にも立たない。このようなコミュニケーションを目的として言葉を磨こうと思ったら、小説や落語のようなものが有効だろう。


最後におまけだが、陸上400mHの為末氏は、言語は生き物であり常に変化しているが、英語が今後グローバル化の影響で(日本がそうなったように)よりあいまいになっていくのではないかと予想している。おもしろい予想である。(あまり知られていないが、彼のブログは本当におもしろい!)

No comments:

Post a Comment